山彦の姿は・・・(平野の岳参り)
(去年書きかけだった記事です。)
去る11月3日に平野(ひらの)区の岳参りが行われた。
平野区の自慢は、「屋久島で一番楽な岳参り」だ、ということである。
公民館の背後に低いながらも険しくそそり立つモイヨ岳(620m)。平野権現はその頂上・・・ではなく、頂上から南東に下りてくる尾根のずーっと下の方の、小さいピークの岩屋に置かれているのだ。
だからよその集落のように、区長さん以下一同、気合を入れて大仕事に取り組むぞ、という緊張感は微塵もなく、平野公民館に10時ごろ集合して、きわめてゆるい雰囲気で、さ、ボチボチいっかね、という雰囲気でスタートする。
今年は育成会の行事にもなったので、子供も多くて、老若男女しめて30人ばかりいたろうか、というにぎやかさであった。車に乗り合わせて登山口まで登り、平野権現入口の新しい標柱から全員でわいわいと登りだす。古い林道跡を少しゆき、照葉樹林の急登を15分もゆくと、なんのこともなく、もう到着である。
急な尾根の上に、花崗岩のけっこう立派な岩屋があり、その中に古い鹿児島産山川石の石祠が三基ほど祭ってあり、岩屋の上はちょっとした展望台になっている。
平野も岳参りをやっていたとは、島に住んでいるのに知らなかった人も多いだろう。明治に鹿児島の折田氏が大規模な開拓を行い、また昭和期にタングステン鉱山が操業するなどして形作られた、比較的歴史の新しい集落だ。しかし岳参りの歴史はそれほど浅くないらしい。区のみなさんも、「小さい頃からやっていたぞ」という。
石祠にサカキを飾ってローソクをともし、1人ずつお神酒を上げて拝んでゆく。私の番になったのでお参りし、ついでに石祠のひとつを少しこすって見ると、向かって右手に「施主安房之助八敬立」という銘がくっきり浮かび出た。
安房の助八さん。苗字なしの記名ということは島津藩政期のものだろうか。平野にまとまった集落があったという記録もないので、安房からやや出張って詣所にしたのだろうか。
退出しようと急な足場を慎重に探ると、かたわらに小さな白いものが顔をのぞかせているのが目に付いた。
おや、これは・・・
ヤッコソウのつぼみである。(埋もれたポリ袋の陰から(笑))。
周りにはシイの大木が多いので根が入り込んできているのだろう。権現の岩屋にヤッコソウがあるというのはいいなあ。
祭りの儀式も終わり皆で弁当を食べているときにその話をした。すると近所のSさんが、ぽそっと「山彦は・・・」とつぶやいた。
「山彦、ですか?」
「ああ、子供のときに、山彦だと言ってましたよ。これが答えるんだって。」
・・・なんと、そうなのか。平野ではヤッコソウこそが山彦の正体だと見なしていたのか。これは初耳である。屋久島のほかのところではどうなのだろう。屋久島語ではヤッコソウのことをなんと呼ぶのだろうか。
ちょっと脱線するが、「彦」というのは古代の男子名に多い接尾語的代表語である。○○彦という名は古事記にたくさん出てくる。のちに同義語として、○○麻呂もしくは○○丸、○○助、○○兵衛、○○太郎などが輩出するが、それらの神話的始祖といってもよい。
見晴らしのよいところで叫ぶと、山にいる何かが不可思議なコミュニケーションを試みてくる。その相手を山の神かなにか、と見なしたものがヤマビコで、木々の霊のオウム返しだと考えるのがコダマであろう。
今のようにあれは自分の声の反響だ、などと実もフタもなくわかってしまうのでなく、変なものが不可思議にもオウム返ししてくるぞ、と考え、そのものに「山彦」と名づけてしまう、そのような古代の心のありようは、とても新鮮に感じられる。
そのころの世界は、広かっただろうなあ。よくわからないものや、誰も行ったことのない土地が果てしなく続いていて。
ギリシア神話にもエコーというのがいたなあ。そういえばYNACでエコツアーを始めた頃、そんな言葉を誰も知らないのでよく「エコーツアー」と間違われたな。
・・・脱線でした。
「山彦というのは、あれはヤッコソウが答えてくれるのだ。」 というのはしかし、だれが思いついたんでしょうね。どこか他の土地でそういう話をご存知の方はいらっしゃらないでしょうか。
ヤッコソウ群落(某所にて)
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