歴史

2017.01.20

屋久島の「先島丸」と船葬

屋久島のお墓には、墓石に葬る前に一時的にお骨を安置する小さな小屋型の「魂屋」がおかれる。その壁にはかつて先島丸という船が描かれるものだった。

屋久島の民話には、たくさんの先島丸が集まっているところに迷い込んでしまった恐怖を語るものがある。1つは志戸子の泊川の浦、1つは奥岳にある御船岳で、先島丸は死者を乗せて旅立つものであり、つまりそのイメージは死後の世界を意味する。死後の世界が海にあったり、船の浮かぶ水面なのに山上異界になっていたり、複雑なことになっているが、いずれにしても、屋久島には船葬であの世に行くという死生観があったのは間違いない。

ところが弥生時代や古墳時代の遺跡には、実際に船葬が行われていたことを示すものがある。
福岡県筑紫野市の五郎山遺跡には、棺を乗せた船が来世の世界を目指す壁画があり、また奈良の巣山遺跡では実際に埋葬に使われた全長8mの船が発掘された。

さらに、天皇家では納棺のことを「お舟入り」と呼ぶのだそうだ。

これが西日本で一般性のある事実なら、屋久島の先島丸は、弥生時代まで遡る可能性があるということになるだろう。

2015.01.16

屋久島史上最強の男、荷物は180kg!

屋久島最強の男の記録。出典がどこだったのか、ようやく再発見した。

『屋久町郷土誌第一巻村落誌上』栗生村落誌 12林業・狩猟業(2)モチの生産

P163 「(栗生の)山崎常彦は、大変な力持ちで、三百斤(百八十㌕)背負ったことがあった。」

180kg。この常彦さんがおそらく屋久島史上最強である。

黒味川上流左岸、七五岳北西面の33林班に、上下5段の餅田跡が現在も残っているらしい。大正年間ここでトビウオ漁が終わってから年末までの半年間、総勢80名ほどの人が従事していたという。

「運搬人夫賃は一たる二十五銭、男で一日一円(米一俵十五円) 距離が遠く一日一回しか運べなかった。」

七五岳の麓から栗生まで、普通30kgのトリモチ樽を3~4個、90~120kg担ぎ下ろしていたのだ。しかし最強の常彦さんは、180kg、つまり樽6個を担いだ大力だった。

同時期に、小杉谷から楠川への屋久杉搬出(山稼ぎ)でも、20貫から30貫担いだという記録が残っているので、これくらいが屋久島の平均的な労働だったのだろう。凄いものだ。

ちなみに米の価格から換算すると、日当の1円(30kgたる×4個)はおそらく現在の1300~2000円程度。常彦さんの稼ぎは人の1.5~2倍で、最大3000円程になる。

これまた出典が不明なのだが、「宴席では力の強いものから上座に座った」という記述もどこかにあった。力=資産 だったのだなあ。いまもその気風は残っているような気もする。

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